フランチェスコ・トッティ 1976年9月27日生まれ
イタリア代表 ASローマ所属
世界に名だたるASローマとイタリア代表の全てをつかさどるプレイヤー。自分で得点をあげることも他人のゴールをアシストすることも出来る万能なプレイヤーでもある。子供の頃からロマニスタで当時のローマの王子様、ジャンニーニにあこがれて少年期を過ごす。当然のごとくローマの下部組織に入団しその才能の片鱗を見せ付けると1993年3月28日のブレッシャ戦でわずか16歳にしてトップチームデビューを果たす。圧倒的な速度で成長するといつしかあこがれだったジャンニーニを追い抜き、ローマの王子とよばれる存在になっていた。デビュー以来毎シーズン、優勝候補に挙げられながら後一歩で成し遂げられず、批判の対象となる事もあったが00/01シーズン、ガブリエル・バティストゥータなどと共についにその夢を達成する事に成功。ロマニスタに念願のスクデットをもたらす。更に2004年12月19日パルマ戦においてはR・プルッツォの持つローマ歴代得点記録を塗り替える107得点を達成している。1998年の欧州選手権予選スイス戦にて代表デビュー。瞬く間に不可欠な戦力となり日韓ワールドカップにての活躍を期待されたがたいした印象を残せぬまま敗退。雪辱をかけて望んだEURO2004も相手選手に唾をはきかけるという行為で出場停止となり、トッティの居ないイタリアは無残に敗れ去った。わがままで奔放な王子はローマとイタリアを愛しすぎるがゆえに行き過ぎた行為に及んでしまうこともある。しかし、トッティが世界でも最高クラスのプレーヤーであるということは紛れもない事実である。
ニウマール 1984年7月14日生まれ
ブラジル代表 リヨン所属
世界最高のFW育成王国ブラジルの中でもトップクラスの完成度を誇るリヨンのジョーカー。ラウールの嗅覚とオーウェンのスピードを持つといわれる世界の頂点にたつ可能性をもつ若手ストライカー。フランスにやってきた当初は懐疑的な意見が多かったが、デビュー戦で2得点という活躍を見せると一躍ヨーロッパ屈指の期待の若手となる。2004−2005のチャンピオンズリーグではグループリーグで4得点をあげリヨンの首位通過に大きく貢献する。その甘いマスクからは創造できないほどの才能を持ち、こう着状態に陥った時の王者リヨンの切り札である。
ロナウヂーニョ 1980年3月21日生まれ
ブラジル代表 バルセロナ所属
ブラジルの”勝利=芸術性”というポリシーを信じられないレベルで実現させる現世最高のテクニシャン。彼のファンタジーを見るためだけに毎試合、カンプノウの客席はファンで埋まり、そのファンタジーに酔いしれる。多くのブラジル人と同じように、彼の生まれた家庭は貧しかった。父も兄も彼が物心がつく前から働いていたが、父はグレミオの駐車場の管理人で、兄はその下部組織の選手だった。もちろんのごとく幼いロナウジーニョもサッカーボールに夢中になる。6歳の時に兄アシスがグレミオとプロ契約を結び、今まで以上にサッカーに打ち込めるようになったロナウジーニョは周囲が驚くほどのスピードで上達していった。ちなみに兄アシスも将来を嘱望されるプレイヤーで、後に日本のコンサドーレ札幌でもプレイした選手である。幼き日のロナウジーニョはいつもサッカーに興じていた。毎日クラブの練習に通い、それがない日は自宅の庭で野良犬たちを相手にフットボールに打ち込んだという。障害物だらけの庭が後に世界最高のテクニシャンを生むことになったのだ。17歳でトップデビューを果たし、スランプにさいなまれもしたが、それを救ったのは兄アシスだった。あれよあれよという間にグレミオの英雄となった彼をヨーロッパのスカウトたちがほうっておくわけもなく、パリ・サンジェルマンへの移籍が決定。フランスでも期待にたがわぬ活躍を見せ、日韓ワールドカップで世界的な評価を確立すると、2003年にはフランク・ライカールト監督を招聘したバルセロナへの移籍が決定。低迷していた名門の再建を託されるとわずか1シーズンの間にヨーロッパで最も魅力あふれるチームへ変えてしまった。そのバルセロナの根幹をつかさどっているのがロナウジーニョである。これから先、バルセロナには輝かしい未来が待っている。彼らのアイドルロナウジーニョはディエゴ・マラドーナ、ジネディーヌ・ジダンの系譜に連なるその存在だけで勝利を勝ち取ってしまうプレイヤーなのだから。
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